投稿日:2007-01-20 Sat
日本書紀によると、大化の改新の始まりは、645年に中大兄皇子が中臣鎌足らと組んで、蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で暗殺し、父の蘇我蝦夷の屋敷を襲って自殺させたこととされています。そして、その翌年の正月に出された改新の詔は、
1.公地公民制の原則
2.行政区画、軍事、交通制度の制定
3.班田収授法
4.新税制
の4条からなり、中央集権国家にむけての第一歩を記したものとなっています。
が、最近の研究では、この大化の改新はなかったのではないか、という説が有力になってきています。その根拠は、
1.「郡(こおり」)と言う用語が出てくるのは、大宝律令以降、それ以前は「評(こおり)」を使っていた文書が見つかっている。
2.「戸籍」、「計帳」、「班田収授」は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
3.蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子は死んだが、この改新で、いとこの蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)は右大臣になっており、蘇我氏は大化政権にとってもまだ無視できない勢力を保っていた。
また、公地公民もこの時期から実施された形跡もなく、つまるところ、大化の改新はなかったわけではないが、後世にかなり脚色されて日本書紀にまとめられたのではないかということです。
ちなみに、この大化の改新の年号の覚え方を、私の別ブログの方で取り上げています。よろしかったら参考にしてください。
大化の改新−俳句で覚える歴史年表
http://nenpyo.seesaa.net/article/31520187.html
参考にしたサイト
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://encyclopedie-ja.snyke.com/articles/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0.html
大化の改新はなかった?−凡人は歴史に学ぶ
http://ameblo.jp/urutora5963/entry-10022495298.html
雑学 |
21:28:41
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